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大倉喜八郎の赤石岳登山

1926(大正15)年8月7日、赤石岳山頂に200人の万歳三唱と君が代が響き渡った・・・・。これは特種東海製紙㈱の前身である東海パルプの創業者、大倉喜八郎男爵の赤石岳登頂の一場面です。井川山林では歴史上様々な出来事がありましたが、この登山はその中でも最大の出来事です。総勢200人といわれる登山は、赤石岳の東尾根に登山道を開設し宿舎を建てることから始める大事業で、新聞各紙の記者が随行し日々新聞報道されるほどでした。

赤石岳山頂での万歳三唱

創業者 大倉喜八郎

創業者 大倉喜八郎

大倉喜八郎は、明治から大正にかけてのわが国黎明期に活躍した実業家です。特種東海製紙の前身の一つである東海パルプ(創業時は東海紙料㈱)の創業者であると同時に、大成建設や帝国ホテル、サッポロビール、東京経済大学など数多くの企業や団体を設立し、一代で大倉財閥を築きました。

東海パルプの歴史は、1895(明治28)年に喜八郎が井川山林を購入したことに始まります。購入後、東京帝国大学に調査を依頼し全貌を把握すると初めは製材事業を始めますが、豊富な木材資源と水力発電とを合わせた事業として製紙原料に着目し、1907年に同社を創立しました。

ところで、喜八郎が井川社有林を購入したのは59歳のことでした。井川山林は喜八郎が購入して以来、大倉山林と呼ばれるようになりました。そうしたこともあり喜八郎は井川社山林には並々ならぬ愛着をもっていましたが、その後喜八郎は業容を広げさらに海外進出もしたため多忙を極め、なかなか井川社有林に足を向けることができずにいました。ようやく憧れだった赤石岳登山を計画できたのは1926年のこと。喜八郎90歳でした。

大倉尾根に登山道を開く

赤石岳 万年雪の踏破

喜八郎の赤石岳登山計画は東海紙料の担当者にとっては寝耳に水でした。当時、赤石岳登山は長野県側大鹿村の小渋川を遡るものでした。しかし、喜八郎が自身の山林の盟主である赤石岳に登るのに大鹿側からという訳にはいかない。財閥の総帥が赤石岳に登ると言われた東海紙料の担当者はさぞかし慌てたと思います。

当時椹島には林業の基地ができており、聖沢や鳥森山では木材生産事業が進められていました。しかし、赤石岳は道らしい道もない1万尺を超える山、そして喜八郎は90歳。まさかご自分で登っていただくわけにはいかない。しかも準備期間は1か月。

 

そこから検討を重ね、喜八郎には駕籠にお乗りいただくこととし、最後の急斜面だけは背負子でおぶられることとしました。そして、東海紙料の山林部総動員で椹島から赤石岳に至る登山道の整備が始まり、述べ2000人以上の樵と人夫が昼夜突貫で桟橋を架けたり岩場に階段をつけたりなんとか駕籠が通れるように整備しなおしました。さらに、沼平と奥槇沢三角点(現赤石小屋東)近くには小屋も建築されました。そして、喜八郎の年齢を考えてのことだと思いますが、2人の医師、マッサージ師まで同行させる念の入れようでした。

宿望を果たす

井川村で歓待を受ける一行

8月1日、東京駅を出発した一行は、静岡駅からは自動車と人力車を乗り継ぎ落合に宿泊。2日は、大日峠を駕籠で越して井川に宿泊。大日峠と井川本村入口には歓迎のアーチが架けられ、本村では村長や郵便局長をはじめ青年団や処女会、老人連とともにブラスバンドで出迎えを受けました。3日は大井川を遡り沼平まで。沼平には木材流送のための飯場がありましたが、喜八郎は今回のために建築した小屋に宿泊。4日も大井川を遡り椹島まで。数多くある吊り橋を駕籠で渡るのに苦労したそうです。5日は天候が悪く、椹島で足止めとなりました。

6日はいよいよ登山。新たに整備された登山道を駕籠で進み奥槇沢三角点の小屋に宿泊。喜八郎は一行と荷揚げしたビールで乾杯。小屋には当時は高級品だったラジオが置かれ、前年放送が始まったばかりの放送を楽しみました。7日は雨が上がるのを待って7時半に出発。ハイマツ帯まで来ると喜八郎は駕籠から降りて背負子の椅子に後ろ向きで腰かけ、山男がそれを背負う。北沢の雪渓をそれで横切り登り高山植物を愛でながら、11時半ついに頂上を極めました。頂上で一斗樽40個を担ぎ上げた風呂に入浴後、羽織、袴に改めた喜八郎は、多年の憧れが実現した喜びからか、万歳三唱と君が代斉唱を溌剌と高調子で一行をリードし、冷酒樽の鏡を開きました。

赤石の 山のうてなに 万歳を 唱うる老も 有難の世や

赤石岳山頂で喜八郎が詠んだ歌です。この歌は、駕籠かきから最後の急登を背負ってくれた山男をはじめ、登山道整備から食糧や飲み物などの物資運搬、静岡から井川、椹島を経て赤石岳山中までリレー形式で情報伝達を担当した社員など、多くの関係者の労をねぎらったものと思います。さらに年末には登山記念の写真集を関係者に配り、感謝の気持ちをあらわしました。

こうして開かれた椹島から赤石岳に至る登山道は、当時は裏登山口と呼ばれましたが、その後「大倉尾根」と命名されました。現在は大鹿村側に代わり、赤石岳登山の主要コースとなっています。

【文責:鈴木康平】

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